4/09/2012

染井の桜


以前、出張先でタクシーに乗ったときのこと。運転手さんが話しかけてきた。
「あたしは花が好きでね、引退したら全国の県花を見て回りたいんですよ。お客さんはどこから?」
「東京ですが」
「ああ、いいねえ。春、染井に行って桜を見たいものです。きれいだろうなあ」
巣鴨~染井界隈は用事で何度か訪れたことがあったけれど、「ここがソメイヨシノの発祥地か」くらいにしか思っていなかった。ただ、運転手さんがあまりに熱く語るものだから、それ以来「染井」が胸の奥に引っかかっていた。発祥というけれど、誰かが作ったものなんだろうか? 書名に惹かれて手に取った本、木内昇さんの手になる『茗荷谷の猫』の一編「染井の桜」がぼくの疑問に答えてくれた。

侍の徳造は草木好きが高じて植木職人になる。「庭じゃなく、景色を造りたい」との思いから、徳造は金になる朝顔や菊ではなく、桜の変わり咲きを造ることに精を出す。何年もかけて掛け合わせを繰り返し、ついに息をのむほど美しい桜ができた。人々はそれを「吉野桜」と呼び、「移ろうから、儚いから、美しい」とたいそう愛でた。
ところが、せっかく苦労して造ったというのに、徳造は苗木を安い値で誰にでも分けてしまう。職人仲間から、もっと高い値を付けないともったいないと諫められても、徳造はこの桜が世に広まらないことが何より悲しいと言って聞かない。ならば、せめて自分の名前を付けろと言われると、せっかくのきれいな花に自分の名前を付けるのは野暮だと返し、違う呼び名を提案する。染井生まれだから「染井吉野」でいいじゃないか。

 絵画や音楽もそうだけれど、背景を少しでも知って接すると、見えたり聞こえたりするものががらりと変わるから面白い。いま暮らしているのは古い町で、庭に桜の木のある家が少なくない。桜の木を残すために路が妙な感じに曲がっていたり、敷地がいびつになっていたりするところもある。桜の多くはソメイヨシノで、静かな町を静かに彩っている。立ち止まり、徳造さんのことを思いながら見上げてみる。枝に開いた薄紅色の中に江戸の植木職人の心意気が息づいている気がして、うれしくなった。


巣鴨のほかにも品川、茗荷谷、本郷、市ヶ谷、千駄ヶ谷、浅草、など東京の町を舞台にした物語が収められていて、それぞれが時代を越えてつながっている。散歩に誘ってくれる本です。


aoi

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